この度は、中野淀水先生のご指導の下初伝のお許しをいただきましたこと、衷心より感謝申し上げます。
私と薩摩琵琶との出会いは今から5年前になります。
私は元来口下手で、そこに無精が手伝い年々強化しています。そのためか年のせいか、自分の中でも言葉にしきれない思いも増え、それらを音楽にかえたい、後半生の伴侶なる楽器を持ちたいと思っていました。
民族楽器や古楽器の演奏が好きで、その方面で探すうち、古武士が嗜んだという薩摩琵琶の存在を知り、演奏に強く衝撃を受け魅せられてゆきました。
けれども、奏者としてとなると、あまりにも私はその道に無学無知の上覚悟もなく、垣間見る硬質な世界観は翻って恐ろしくすらあり、入口を探るほど僭越すぎる道行きでした。
一年ほど逡巡し、それでもやはり益々憧れが募るので、お話だけでも伺おうと思い切ってHPの説明を頼りに淀水先生にお問い合わせをしたところ、丁度淀水先生の初夏の会に近く、まずは演奏を聴いてみては、とご案内いただきました。
尚武の精神と哀切の心情の胸に迫る薩摩琵琶楽に心打たれ圧倒されるまま、最後に淀水先生の息をのむ迫真の演奏(舟弁慶)を聴き終えた時には、どうであってもこの方の下で師事させていただきたいと決意していきました。
その後は、自身で案じていたとおり、熱意と裏腹に素養も人格も伴わない分際をひたすら思い知る今日までですが、淀水先生のご指導は常に穏やかで行き届き、鍛錬された所作、造詣の深いお言葉の一つ一つに、鈍った心身が引き締まります。また、琵琶は演奏に全てが出てしまうので、否応なしに厳しく内省を促されます。下手ながら、奏でていると心が定まります。お稽古日に淀水先生を前に演奏する時は、演奏会よりもむしろ緊張し恥ずかしいのですが、帰り道は深い充足感に満たされ、不肖の弟子を詫びつつも、比類なき師と楽器に巡り会え嬉しい精進の日々です。
きっかけとしては自分のためでしたが、曲の登場人物はかつて実在し、その勇(悲)壮や清雅を語り継ぐ側に入れていただいた上は、先生先輩方に習い、いつか私も自己満足の域を脱し、聴いてくださる方と古人の心の橋渡しをしたい、それが今後の目標となりました。
どうか、皆様、今後ともご指導賜りますようよろしくお願い致します。